烏山さんの遺体は、ダバオ市内の葬儀場に安置してあり、そこで弔問客を受け入れています。
フィリピンは他の都市や海外に出稼ぎに行っている親族がたくさんいるのが当たり前な国なので、
遠くからでも戻って来れるように、この弔問期間を長い場合は1週間くらい続ける場合もあるんですが、
烏山さんはなるべくシンプルな葬儀を望んでいたので3日間、としました。
続々と弔問客が来てくれています。アイダさんの親族や、娘のエリカの友達たち、
ダバオ在住の日本の方々も来てくれていますが、何といっても多いのはHOJの卒業生たちです。
到着するとまずは棺に向かって大号泣。それにつられて、周りのみんなも泣きだして、ひとしきりみんなで涙にくれます。
そしてここからが、フィリピンのお葬式らしいところ。
お調子者が面白おかしいことを言って、みんなを笑わせようとするんです。
えええ?!と日本の方は思うかもしれませんが、そのジョークにつられて、みんな少しずつ笑顔になっていきます。
故人にまつわる笑い話をみんなでシェアして、いつの間にか大爆笑するほどになります。
そんなふうに時間を過ごしているところに、また新しい弔問客がやってきて泣きだして、
それにつられてまたみんなで泣いて…という感じで、泣いて、笑ってを延々と繰り返します。
こうやって、笑顔で悲しさや寂しさを薄めていくのがフィリピンの「おくりかた」なんですね。
泣いて笑ってを繰り返すとすごくお腹が減るので、その場でみんなで食事もします。
レスト・イン・ピース!(安らかに眠り給え)と言ってこんな写真を撮ったりもします。
そんなこんなで一晩過ごし、今日は朝から、HOJのこどもたちも日帰りでダバオにやってきました。
もちろん最初はみんな泣いていましたが、アイダさんが
「アンケルはみんなが笑顔なほうが喜ぶ
そしてみんなでお祈りです。エミリーはお祈りしているときに、烏山さんの声を聴いたそうですよ。
最期はみんなで笑顔でお別れ。
烏山さんはよく「私が死んだら、棺をこどもたちが囲んで笑って見送ってくれる、ってのが夢だなあ」と言っていました。
まさに、夢が叶いましたね!
こどもたちの弔問の様子を動画にしたのでご覧ください。
烏山さんが天国から見てるから、笑顔を見せないと!…と考えてこどもたちが取った行動には
爆笑と涙が止まりませんよ。
日本の文化からしたら、不謹慎に思えるような態度かもしれませんが、
「笑顔で悲しみを乗り越える」というのは、孤児院にハウスオブジョイと名付けた烏山さんが、まさに目指したことでした。
これ以上、烏山さんにふさわしい葬儀はない、と思います。烏山さん、レスト・イン・ピース!
1957年8月に長崎で産まれた烏山さんは、敬虔なクリスチャンの家庭で育ちました。
毎週どころか、毎朝教会に行っては侍者(神父さんの手伝い)をしていたそうです。
そんな中で成長していった烏山さんはいつも教会で「愛」について聞かされていました。
一般的に言う色恋沙汰の愛ではなく、神の愛とか無償の愛と呼ばれているものです。
「愛っていったいなんだろう?ここでずっと祈ってることが、愛なんだろうか?」
烏山さんの「愛」への探求が始まりました。
そんな若いころの烏山さんの道しるべとなったのが、マザー・テレサでした。
インドで死にゆく人たちのために働いている彼女の姿こそが「愛」だと烏山さんは見いだし、
「愛とは単なる言葉ではない、行動なのだ」と思うようになります。
そして、大学で農業を勉強し、青年海外協力隊に志願しました。
1981年、野菜の普及隊員としてフィリピンにやってきた烏山さんは、ダバオオリエンタル州に配属されました。
この場所こそが、後にハウスオブジョイが設立された場所です。
キャベツの育て方を教えながら村を巡り、2年間でたくさんの友達ができて、ここが第二の故郷になりました。
その後、日本に戻ってからは海外生活経験と英語力を買われて商社に就職し、台湾に駐在員として派遣されました。
バブルの時期だったこともあり、十分すぎる給料をもらい、協力隊時代にフィリピンで出会ったアイダさんと結婚し、
娘も生まれ、はたから見れば順風満帆の人生でした。
でも、烏山さんは商社の仕事を続けている中で、自問を繰り返すようになります。
「自分がやりたかったことはこれだろうか?」
そして、烏山さんは仕事を辞め、孤児院を設立することを決意しました。
奥さんのアイダさんをはじめ、周り中の人が反対しました。そんなこと実現できるわけがない。
それでも、烏山さんの決意は揺るぎません。経験を積むために長崎の五島にある児童養護施設で2年間働き、
そのうえで、商社マン時代にためていたお金をつぎこんで、1997年8月ハウスオブジョイを設立しました。
烏山さんが作った孤児院はすぐに評判を呼び、たくさんのこどもたちが集まりました。
しかし、それは、そのぶんお金がかかるということでもあります。
このくらいあれば2~3年は大丈夫だろう、と思っていた貯金は1年もたたずに底をつきました。
もうこれは祈るしかない、烏山さんがそう思ったとき、地元、長崎から連絡が入りました。
「HOJを支援する団体を立ち上げました。お金はどこに振り込んだらいいですか?」
烏山さんの行動は、周りの人を巻き込んで広がっていきました。
日本中を駆け巡っては講演活動を行い、日本中、世界中からの訪問客を歓迎し、たくさんの人がHOJを知り、
こどもたちの笑顔に魅了されて、支援してくれるようになりました。
そうして烏山さんは、奥さんのアイダさんと共に、10年以上HOJを運営していきました。
ただ、その烏山さんを病魔が襲いました。2007年に、脳梗塞で倒れたのです。
すぐに回復して見た目には元気そうでしたが、そのときから、持病だった糖尿病はどんどん悪化していきました。
2011年には右足を切断、2012年には左足も切断し、2014年からは透析も必要になり、自宅にいることのほうが長くなりました。
少しずつできることが制限されていく中でも、烏山さんは体調のいいときにHOJに来ては、
こどもたちや、日本から来る若者たち、訪問者たちに笑顔で接していました。
多くの若者が、烏山さんに出会ったことで夢に向かって踏み出す勇気をもらっていきました。
小康状態を保っていた烏山さんですが、去年あたりから、ときどき体調不良を訴えては、
1日~3日くらいの入院を繰り返すようになりました。
もっと根本的な治療をするためにも、4月には日本に行って、
可能なら腎臓移植手術も受けよう、と準備をしていた矢先、2/6にお腹が痛い、と言って入院することになり、
2/7には体調も安定して、翌朝には退院できそうだね、と話していたんですが、
2/8の朝、突然に内出血が起き、血圧が低下、心停止に至りました。
付き添っていたアイダさんに「I Love You、ありがとう」と言ってから旅立ったそうです。
「愛とは何か」を人生を賭けて探求し、実践した烏山さんの最後の言葉が、
「I love you, ありがとう」だったのは、とても象徴的なことに思えます。
フィリピン式の何日も続く「お通夜」には、アイダさんの親族、HOJの卒業生たち、
ダバオオリエンタルの友人たち、ダバオ在住の日本人たちなど、たくさんの人がひっきりなしに訪れてくれています。
集まるみんなが、烏山さんの話題で盛り上がって、ワイワイ過ごすのがフィリピン流なんですよ。
笑いが止まらないエピソードもたくさんあれば、涙なしには語れないエピソードもたくさんあります。
今晩はHOJ卒業生たちと、とっておきの昔話で盛り上がりたいと思います。
2019年2月8日朝5時ごろ、ハウスオブジョイの創設者である烏山逸雄さんが天に召されました。61歳でした。
2日ほど前から体調不良で入院しており、昨日は小康状態を取り戻していたんですが、
今朝、明け方に体調が急変し、病室で看護していたアイダさんに
「I Love You, ありがとう」と告げてから息を引き取ったそうです。
苦しむことなく、安らかな最期だったとのことです。
葬儀は近日中にダバオにて行う予定です。
詳しい日時や場所につきましてはsawamura@hoj.jpまでご連絡ください。
※同日22時追記
これから3日間、CabaguioのCosmopolitan Memorial Chapelに遺体を安置して弔問客を受け入れ、
月曜の午後にCamusのCosmopolitan Memorial Chapelにて火葬を執り行います。
弔問に事前のご連絡は不要ですので、お立ち寄りいただける方はぜひお越しください。
烏山さんの遺志を継ぐ意味でも、ハウスオブジョイはなるべく予定通り、平常通りの活動を続けます。
こどもたちの笑顔こそが、烏山さんの一番望んでいたものですから。
烏山さんが成し遂げたことの大きさを想いつつ、ご冥福をお祈りください。
私は、烏山さんが天国で、久々に大好きなお酒を飲みながら、
親より先に天国に来ちゃった子たちと、一緒にサッカーをしている姿を思い浮かべました。
みなさんは、どんな姿を思い浮かべましたか?
願わくば、みなさんの思い浮かべる烏山さんが笑顔で、それを思い浮かべるみなさんも笑顔でありますように。